「当たり前」の裏側にある、
たくさんの命と季節の巡りについて、今日は想い馳せてみようと思います。
blogを書く手が止まっていました。
皆さま、いかがお過ごしですか?
以前のBlogを書いた時は、まだまだ寒さ厳しい「水沢腹堅」の頃でした。
その名前の通り、大きな氷柱がぶら下がる光景には驚かされたものです。
そして、この記事を書いている今は「雞始乳」の頃。
一年の終わりを告げる庭鳥
雞始乳とは、
鶏が卵を抱き、巣にこもり始める様子を表した言葉です。
今では一年中、当たり前のように卵を手にすることができますが、本来、卵の旬は二月から四月頃。
冬の間、鶏はほとんど卵を産まなくなります。
だから昔の人は、
鶏たちが静かに卵を温める姿を見つめながら、
「ああ、春がすぐそこまで来ているのだな」と、
小さな喜びを感じていたのでしょう。
そして私自身も、ここ最近の風に春の香りを感じ、嬉しい気持ちになるのです。
日本人が鶏の肉や卵を食用とするようになったのは、江戸時代以降だと言われています。
それまでは、鳴き声や美しい姿を楽しむために飼われ、時計のなかった時代には、時を告げる大切な存在でもあったそうです。
人間の傲慢さを思い返す時
そんなふうに大切にされてきた鶏ですが、
大量生産・大量消費が当たり前となった現代では、
寿命が大きく縮んでしまいました。
本来鶏は、
卵を抱いている間は次の卵を産みません。
けれど、人の手ですぐに卵を取られてゆくので、次々と産むように。現在の採卵鶏は、一日に一個のペースで卵を産むと言われています。
自然な状態であれば、
十年から十五年ほど生きる鶏の寿命。
それに対し、採卵鶏の寿命は、わずか二年ほど。
「雞始乳」という言葉は、
私たちが当たり前だと思っている日常の裏で、犠牲になっている命に”もう一度目を向ける”きっかけを与えてくれる言葉のように思います。
「本当に大切にしなければならないものを、見失ってはいけないよ。」という、戒めの言葉のようにも感じるのでした。
毎日家族で囲む食卓。ときには、
やっつけ仕事のように作る日もあるけれど。
「いただきます」
「ごちそうさまでした」
当たり前の言葉だからこそ、その心を
これからも大切に伝えていきたいですね。
芽吹きの、春
本格的に新しい一年が始まります。
我が家のおうち掃除は、
まだ行き届いていないところもあるけれど、皆さまはいかがでしょうか。
二月四日は、
七十二候では「東風解凍」に入ります。
暖かな春風が、川や湖の氷を少しずつ解かし始める頃。
誰の心にも、春の日差しのような温もりが
そっと降り注ぎますように。
そんなことを想う、今日でした。





