和の暮らし

日常はもっと、グラデーションでいい 。鏡開きと、日本文化のやさしさ

こんばんは。久美子です。
松の内が終わり、あっという間にいつもの日常が戻ってきましたね。

娘は幼稚園へ、私はお仕事へ…。

ハレの日を心から楽しむためにも、
ケの日々を丁寧に紡ぐことが大切なのだな…
そんなことを
しみじみと感じる期間でもありました。

さて。
鏡開きもまだ終わっていないというのに、
私が手に持っているものは何でしょうか。

そうです、おぜんざいです。

鏡開きを待てずに、うっかり(いえ、しっかり?)
フライングしてしまったのです。

頂き物の小豆と、これまた頂き物のおもちで作ったおぜんざい。
「食べて〜食べて〜」と言われている気がしてならなかったのです。

連日続いたお正月料理で、お腹はパンパンなはず
なのに、思わずおかわりまでしてしまった私。

もしかすると、お腹の中に小さな
ブラックホールでも潜んでいるのかもしれません。

ことこと、ふつふつと。
ストーブの上で踊る小豆から立ちのぼる、
えも言えぬ良い香り…🤎

お砂糖を入れていなくてもほんのり甘く香るので、ついついつまみ食いしたくなってしまいます。(ちゃんと我慢しましたよ)

鏡開きという、やさしい節目

本来鏡開きは、松の内が明け、年神様をお送りしたあとに”お正月の区切り”として行われる行事です。

鏡餅を割り、お汁粉やおぜんざいにしていただくことで、新しい年の力を身体に取り込む…そんな意味が込められているんですね。

また、「切る」のではなく「開く」と表現するのは
刃物を使うことを忌み、物事が穏やかに開いていくよう願いを込めたからだそうです。

昔の人は、「言霊」を本当に大切にしていたんですね。言葉ひとつにも、暮らしへの祈りを込めていました。

ーだと言うのに私ったら…!
鏡開きを待てずに、ひと足先におぜんざいを
作って食べてしまったのです。

でも…
日本の行事や暦を学んでいると、
思うことがあります。

それは、日本の文化は、
人の「弱さ」を前提にしている
ということ。

人の不完全さを織り込んだ上で、
暮らしが組み立てられていると言うこと。

ハレとケの間。日常はグラデーションでいい。

暦を意識せずに暮らしていると、お正月休みが終わった途端、一気に日常が押し寄せてくるように感じます。

何かしていないと置いていかれるような、
そんな焦り。

けれど本来日本の暦では、三ヶ日が終わったあとも
人日の節句」があり、「鏡開き」があり、
「余白」や「余韻」を味わうための隙間の日が
ちゃんと用意されている
んですね。

人日の節句じんじつのせっくは、1月7日に行われる五節句の一つ。
七草の節句ななくさのせっくとも呼ばれ、春の七草を入れた”七草粥”を食べて、一年の無病息災や健康を祈る行事です。お正月の食べ過ぎで疲れた胃を休める意味合いもあります。

オンとオフ、白と黒をきっぱり切り替える生き方は、とても現代的で、合理的で、強さを求められる生き方だなと思います。

けれど日常は、もっとグラデーションで生きてもいいと思うのです。

競争社会を生き抜くためには、遠回りなのかもしれませんね。
ですが私にとって大切なのは、どうやらそこではないようです。

世の中の正解を当てはめるから苦しくなる

幸せのかたちは、人それぞれ。

世の中の多くの「正解」が、そのままあなたに当てはまるとは限りません。

少数派でも、いいじゃないですか。
心が壊れてしまうくらいなら。
自分が生きたい世界を選んだっていい。

わかり合えないことも、きっとあります。
それは見ている景色も、感じている時間も、
人それぞれ違うのだから仕方のないこと。

人も、時間の使い方も、生き方も。
日常はもっと、グラデーションでいい。

…これは決して、フライング鏡開きしてしまった自分への言い訳、ではないのですよ(コソコソ)